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<ブログ記事>

更新の頻度は特に決まっておりません。
こちらでは聖書について書かせていただきます。
おもに聖書から素敵な言葉をピックアップして、短いコメントを載せていきたいと思います。


・最終更新日2024年1月5日


白河(聖書:初心者で教会にいっています)のコメント




2020年12月17日
マタイによる福音書・2章の1節〜8節より

『イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。 そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、 メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、 お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。 お前から指導者が現れ、 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」 と言ってベツレヘムへ送り出した。』

(星占術たちは、星で占ったときにイエスがベツヘレムで誕生されることを知りました。 それを聞いたヘロデ王は自分の王位が脅かされると思い恐れます。 そこで星占術者たちはベツレヘムへ行き、ある家の馬小屋に入ると、そこには幼子を抱いた母マリアがいました。 赤ん坊の名前はイエスです。マリアがまだ少女だったころ、ガブリエルという天使にイエスと名付けなさいと言われておりました。 星占術たちは、赤ん坊の顔を覗き驚きました。 想像していた王子とは違い、つぶらな瞳をしたとても可愛らしい赤ん坊でした。 この子が末に偉大なお方となり、復活されてメシア(救世主)になるとはこの時点で誰も夢にも思わなかったのだと思います。 わたしはイエス様の復活と奇跡を心から信じます。 たとえ、他人が反対しようと私の信仰心は全く変わりございません。 イエス様と父、神様は世界中を救ってくださります。)





【 ここからは過去に書いた日記です。日付は昇順です 】



2017年8月10日
マルコによる福音書・7章の34節より

『そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。』

(イエスが耳が聞こえず舌の回らない人を癒す場面です。自分の指を両耳に入れてはずし、唾をつけて聞こえない人の舌に触れて呪文のように言うあたりがまるで神様のようでとても印象深い場面でした)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・12章の25節〜27節より

『体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』

(今日の礼拝の説教で聞いた言葉です。教会の中で信者たちが言い争いをしている場面です。信者たちはキリストの体となってそれぞれに役割があり、どれも無くてはならないんですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の10節より

『皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい』

(どんなことでも集団にいる限り、心を一つにして取り組まないと何もなりません。お互いの意見を尊重して一致団結して取り組むことが大切だと実感しました)





2017年8月16日
ルカによる福音書・15章の31節より

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』

(この章のタイトルは「放蕩息子のたとえ」です。イエスが放蕩息子の話しを信者にした場面です。兄と弟の話ですが、弟は勝手に家を出て父親の半分の遺産を全部遊びにつかってしまったのです。その間、兄は父親のために孝行をして一生懸命働くのです。 それなのに、突然ふらっと現れた弟に父親は涙を流して抱きしめて祝福をするのです。私はこの話を何回読んでも理解ができません。 女遊びや贅沢な暮らしをし尽くして家族を捨てた弟なんか許せませんが、この物語を読んで、親はどんなことがあっても家を出て行ってもずっと子は子なんだと思いました。 親と子供目線はまったく違いますね。)





2017年8月20日
讃美歌493番・いつくしみ深い

『いつくしみ深い 友なるイエスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる
悩み苦しみを かくさず述べて
重荷のすべてを み手にゆだねよ』

(教会でお葬式をあげるときに必ず歌う曲です。「いつくしみ深き」とは、恵み深い神さまの慈しみを讃えている賛美歌という意味らしいです。 つらく、悲しいときでも、救い主なるイエスさまは私たちと共におられ、私たちを慰め、いたわって下さいます。 去年の11月から1月にかけて、教会の信者さんが3人もお亡くなりになりお葬式をあげました。みんなご高齢でした。 現在、2人の信者さんが長期の入院をしております。一人は肺に水が溜まっていて深刻な状況です。無事元気に戻ってきますことを祈っております)





2017年8月20日
讃美歌83番・聖なるかな

『聖なるかな 聖なるかな
聖なるかな 主なる神
主の栄光は 地に満てり
聖なるかな 主なる神』

(教会に初めて来て一番最初に聞いて印象に残った曲です。いつも礼拝の最初のときに歌います。キリスト教信仰の基本を讃美としたもので、個人の感情や、信仰体験でなく、神ご自身の本質を讃え、歌っているものです)





2017年8月27日
コリントの信徒への手紙(一)・10章の29節より

『「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです』

(「良心」という言葉はディズニーのピノキオに出てくるブルーフェアリーも言っていました。良心に従うのですよ、と言ってます。 この「良心」という言葉ですが奥が深いんです。上に書いています言葉は、コリントの教会の信者さんから良心とはなにかという質問が寄せられたときにコリントが答えた言葉なのです。 これを読んでわたしはいろいろと考えさせられました。自分にとっての良心と他人にとっての良心があるのですね。どっちをとるかは本人次第なのですが、できたら自分と他人が分かりあえる「良心」に従いたいです)





2017年9月2日
讃美歌6番・つくりぬしを賛美します

『つくりぬしを 賛美します
み前に進み ひれふし
ささげます 身もたましいも
きよい主のみ名を 感謝して』

(教会へいったときに毎回歌う曲です。この感謝にみちた讃美歌はアメリカの感謝祭の礼拝で必ずうたわれるもののひとつらしいです)





2017年9月2日
讃美歌258番・牧人ひつじを

『まきびとひつじを 見守るその夜
はじめて天使は ノエルを伝えた
ノエル、ノエル、ノエル、ノエル
主イェスは生まれた』

(イギリスのクリスマスキャロルです。この曲を毎年クリスマスのときに教会で歌って気持ちがホッとします。 この歌の内容ですが、新約聖書の一つでありますルカの福音書の第2章で見ることができます。羊飼い達が羊の群れの番をしていたその夜に、空から神の使いが現れるシーンが描かれています)





2017年9月10日
使徒言行録・23章の11節より

『その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」』

(イエスに憧れるパウロは、イエスと同じように囚われ裁判をかけられたその夜の場面です。イエスがそばに立って言われたとのことですが、パウロの夢に出てきたということなのか、 生霊として現れたのかは分かりません。この話の続きはまだありまして次の聖書の言葉にも書きました)





2017年9月10日
使徒言行録・25章の10~11節より

『「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、 だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します」』

(皇帝とはローマ皇帝のことです。パウロはフェリクス総督の都合のため2年間裁判を延期している間、ずっと諦めずに待っていました。 そして、任期を満了した総督が新しい総督フェストゥスに変わってから大きく事(こと)が動きました。 これは神様の力によって、あの時の夜に現れたイエスに言われたとおり、ローマへの道が開かれることになりました。そしてパウロはその道を進んで裁判で思い切ってローマ皇帝に上訴すると言いました)





2017年9月10日
讃美歌463番・わが行くみち

『わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん
そなえたもう 主のみちを
ふみて行かん ひとすじに』

(この歌でもありますように、神様が開いてくださった道をただ、ひたすら、私たちは一筋に進んでいくべきだと思います)





2017年9月15日
主の祈り

『天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせ給え。
御国を来たらせ給え。
御心の天に成る如く
地にもなさせ給え。
我らの日用の糧を、今日も与え給え。
我らに罪を犯す者を 我らが赦す如く、
我らの罪をも赦し給え。
我らを試みに遭わせず、
悪より救い出し給え。
国と力と栄えとは
限りなく汝のものなれば成り。
アーメン』

(教会の礼拝の始まりのときに毎回必ず言う言葉です。最近気がつきましたがいろいろな洋画をみていますと、窮地に立たされたときに縋るように祈っている場面をみることがあります)





2017年9月15日
使徒信条

『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて
生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン』

(教会の礼拝の終わりのときに毎回必ず言う言葉です。この言葉もなんだかエクソシストで聞いたように思います)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」』

(パウロと他数名の囚人がローマに向けて航海をする話です。海が大荒れで命の危険もある大航海となります。 暴風に襲われ船が遭難したときにパウロが囚人たちに勇気づけて言ったときの話です。 逆境における強靱な精神をもつパウロですが、昨晩に天使がやってきてまた告げられるのです。その続きを下に書きました)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは(ローマ)皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」』

(前にパウロの枕元にイエスが現れ、そして今回も絶望に陥ったときに天使が目の前に現れました。 パウロは日頃からイエスの気持ちになったようにいつも動いていて信仰もとてもあついです。 彼の体の中にしっかり信仰が刻み込まれていますので、いざというときに力が発揮されるのです。 絶望に陥っても諦めない精神力が素晴らしいです)





2017年9月24日
讃美歌474番・わが身の望みは

『風いとはげしく なみ立つ闇夜も
みもとに錨(いかり)を おろして安らわん
われらのイェスこそ 救いの岩なれ
救いの岩なれ』

(今回の話に沿っているように思いましたので2番の歌詞を書きました。このお話と讃美歌を聞き終わったあと、私もどんな逆境に立たされても決して望みを捨てず、強い信仰をもち強靱な精神を養いたいと思いました)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の17~20節より

『(兵士たちは)イエスに紫の服を着せ、茨の冠(かんむり)を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳(ばんざい)」と言って敬礼し始めた。 また何度も、葦(あし)の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。』

(今回は十字架のはりつけの名場面をご紹介させていただきます。苦しみは人間の罪に対する「神の怒り」、「神の裁き」。人間に向けられるべき神の怒りが、イエスに向けられることになり、苦しみを受け神の子としてなりました。 十字架にかけられるまでに兵士たちは笑いながら彼に、屈辱と壮絶な痛みを与え続け、悲しみと絶望を浮かべる人々の見せしめにしました。つづきもあります)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の22~23節より

『イエスをゴルゴタという所―その意味は「されこうべの場所」―に連れて行った。没薬(もつやく)を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。』

(没薬(もつやく)とは痛み止めのことです。いばらの冠をかぶせられ頭から血を流し、何度も棒で叩かれ背中にノコギリのような鞭を振るわれ、瀕死の重傷でしたが没薬(もつやく)を勧められても飲むことを拒みました。「痛み=神の怒り・裁き」だから彼はすべてを受け止めたのだと思いました)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の33~34節より

『昼の十二時になると、全地は暗くなり、それ(十字架のはりつけ)が三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』

(十字架刑をおこなった時間は午前9時〜午後3時までの6時間です。大勢の人たちの前で十字架に釘付けにして、何時間も激痛を負わせ気絶しかけると気づけ薬で意識を戻し少しずつ体力を消耗させ死に至らしめる身も凍るような恐ろしい処刑です。 この場面は「パッション」という映画でも見られます。雨に打たれながらイエスは暗雲を立ち込めた空に向かい「アッパ!(お父さん)」と泣き叫び続けておりました。 ここに至るまでに何度か死刑を免れるチャンスはありましたがイエスは考えを決して否定をしませんでした。そして、神のお怒りを人間の子イエスがすべて受けました。 とても悲しいことですがイエスの尊さと一緒に忘れてはならないことだと思います。)





2017年10月22日
コリントの信徒への手紙一・13章の2~3節より

『たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、 愛がなければ、わたしに何の益もない。』

(今日の教会の説教のテーマは「愛がなければ無に等しい」でした。 このお話はパウロが信者に教えている場面です。 信仰と、希望と、愛、この3つの中で最も大いなるものは、愛である、とこの上に書いた文章の先に書かれております。 このパウロの言葉を読んでいるかぎり、信仰のみ生きている者と、信仰と愛をもって生きている者とは格が違うように思います。 “信仰”は“人”に向かって語っている、“愛”は“神”に向かって語っている、そのぐらい違いがありますね。)





2017年11月12日
テサロニケの信徒への手紙一・5章の14、15節より

『兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。 弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。』

(今日の教会の冒頭に牧師に話していただきました。この言葉は下に書いてあります言葉に関係してきます。お読みいただきましたら嬉しいです)





2017年11月12日
コリントの信徒への手紙一

9章の19節より
『わたしは、だれに対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました。』

9章の20節より
『ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。』

9章の22節より
『弱い人に対しては、弱い人のようになりました。』

9章の22~23節より
『すべての人に対してすべてのものになりました。
何とかして何人かでも救うためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。』

(今日の教会のテーマとなった話です。これは、イエスと全く同じことをする信仰のあついパウロが自分の信者に話をしている場面です。 話中に出てきます「奴隷」という言葉は聞こえがあまりよくありませんが、この話の意味では“その人のために尽くす”ということです。 だから、その人のために身をおく。相手が何を求めているかをしっかりと捉えるということです。これがパウロの生き方であって根本になります。 パウロはきっと、神様の恵みをあずかり不幸な人たちと共に喜びを感じたい。一緒に笑いたいという思いで尽くしているのだと思います。)





2017年11月12日
讃美歌411番・うたがい迷いの

『ひとりのキリスト わが主とあおぎ
うれいもなやみも たがいに背負い
ひとつのたたかい 共に苦しみ
ひとつのさんびを 喜び歌う』

(今回の話に沿っているように思いましたので3番目の歌詞を書きました。このお話と讃美歌を聞き終わったあと、私も誰に対してもできることがあれば積極的に手助けをし、その人たちと困難を乗り越えて最後に一緒に笑えるようになりたいと思いました)





2017年11月19日
コリントの信徒への手紙

二の10章の1節より
『面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る』

二の10章の10節より
『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいます』

一の9章の24節より
『あなたがたは知らないのですか。競技場で走るものは皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。』

一の9章の26節より
『だから、わたしは、やみくもに走ったりしないし、空(くう)を打つような拳闘(ボクシング)もしません。』



(パウロの教会にたくさんの信者がいますが、その中で彼を悪く言う信者(アンチパウロ)がいます。 上から1つめと2つめの言葉は、パウロに対する信者の悪口です。その言葉が彼の耳にも入ります。 彼は信者宛に手紙を書くのですが、この時のパウロは少し感情的に思いました。 中身のない(空を打つような)言葉を語らないと聖書に書いております。 前の2017年11月12日の記事にも書きました通り、彼は福音の知識を備わっているだけではなく、 福音のために相手の気持ちになって尽くす。相手が何を求めているかしっかりと捉える。 それがパウロの生き方なんです。 でもどんなにいい事や素晴らしい事をしても、それは他の組織でも言えますが必ず派閥やアンチが出たりします。 自分のことを悪く言われて落ち込みますが、パウロは想いをはっきりと伝えて強く前に出ています。 私もちょっと言われただけでよく落ち込んだり自信がなくなったりしますが 最後まで芯をしっかりと持ち、堂々と前に出たいと思いました)





2017年11月26日
フィレモンへの手紙

16節より
『奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。』

17節より
『わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。』



(前回はコリントの信徒への手紙という集団や公衆に宛てての手紙でしたが、今回は一個人に宛てた手紙の内容です。 フィレモンはパウロの良き協力者であり、主イエス・キリストを信じる信仰者であり、伝道の協力者でもありました。 彼の家を教会として提供してくれた人です。 その彼の奴隷人の中の一人、オネシモがお金を盗んで(これは定かではありませんが)逃亡し、オネシモをパウロが匿(かくま)って彼にオネシモを許して欲しいと懇願する手紙なのです。 当時の社会には奴隷制度がありました。 主に戦争捕虜が奴隷となり、売買の対象となっていたのです。 奴隷と言っても昔のアメリカの黒人奴隷のイメージとはかなり違っていて、 特に教養ある奴隷たちは家の子供たちの家庭教師のような仕事を与えられ、 家族の一員のように大事にされてもいました。 しかし基本的には、奴隷は主人が金を出して買った財産であり、 逃げ出したりしたら主人に損害を与えるわけで、厳しく罰せられ、 場合によっては殺されてしまうこともあったのです。 今やフィレモンと逃亡奴隷オネシモとの間にはそういう関係があることを知りつつ、 パウロはオネシモをフィレモンのもとに送り帰そうとしています。 そして、フィレモンに、オネシモを、信仰の仲間として、兄弟として受け入れてほしいと願っているのです。 パウロが一人の弱い人のために、なりふりかまわず必死の想いで書いた手紙です。 このあと、フィレモンとオネシモがどうなったのか書かれていない所で終わっています)





2018年1月22日
出エジプト記

2章の11~12節より
『モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。』

(今日の教会のテーマは「モーセの挫折」です。エジプトのファラオ王はヘブライ人の男の子だけを殺すように、どんな赤ん坊でも徹底しろと兵士たちに命令をくだし、 次から次へと容赦なく幼い子供たちをむしり取って殺していきます。あるヘブライ人のお母さんが我が子だけは助かるようにと、赤ん坊を籠の中にいれて河畔(かはん)の葦(ヨシ=イネ科の植物)の茂みに隠しました。それを見つけた侍女(じじょ)たちがその赤ん坊を救い上げ、エジプトの王女に助けられ養子として育てられてきました。男の子たちがみんな殺されている中、彼だけが助かることは奇跡です。 神様に守られているからだと思います。そして、彼が成人したときに自分がヘブライ人だと気づいてしまいます。そこで、エジプトの役員に奴隷に遭っている同じヘブライ人を見て 怒りを募らせ、そのはずみでその役員を殺してしまいます。この話にはまだ登場しておりませんが彼は、十戒(神から与えられる10の戒め)のうちの殺人罪を犯してしまうのです。 モーセの若気の至り、モーセの人生の挫折にもなります。その後殺人がばれてしまった彼は、エジプトから逃亡し、ミディアンという田舎で祭司の娘と結婚し、羊飼いとして暮らします。人生は山あり谷ありで個人差で年齢に関係なくあるのですね。十戒の話はまた今度お話させていただきたく思います。)





2018年1月28日
出エジプト記

3章の1~12節より

『モーセはあるとき、荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴(しば=山野に生えている小さい雑木のこと)の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。』


『神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答える』


『主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 』


(モーセは祭司の娘と結婚した後に子供を授かり、羊飼いとして何不自由ない暮らしをしてきましたが、モーセの生活を一変するようなことが起きます。 神がここで登場しますが声だけしか聞こえなく、姿かたちが見えません。 話にあります“柴は燃え尽きない”という言葉ですが、“人間の為すことは燃えつきるが、神の為すことは燃えつきない”という意味も含まれていると思います。 若い頃モーセは虐げられている自分と同じ種族のイスラエル人を見て憤るぐらいに情熱がありましたがもう、今の彼にはありません。 しかし、神は虐げられているイスラエル人の泣き叫ぶ声を聞き、今でも怒りの情熱があります。 神はモーセに、エジプトへいきイスラエルの民を救出するように使命を与えます。モーセはそんな大それたことができる筈がないと困惑してしまいますが 神は、「私は必ずあなたと共にいる」といいます。続きはまた次回に書こうと思います。)




2018年1月28日
讃美歌519番・イザヤを招く神の声は

『イザヤを招く 神の声は
今なおひびく 私たちに。
「苦しむ民を 救うために
私は誰を 遣わそうか」』

(今回の話に沿っているように思いましたので1番目の歌詞を書きました。)





2018年2月11日
出エジプト記

4章の3~17節より

『(モーセが神に言われて自分の)杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。』


『モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。』


『モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」』


『(モーセがさらに言った。)「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」』


『(神が弱気になっているモーセについに怒鳴った。)「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」』


(羊飼いとして田舎で平穏に暮らしていたモーセは神様にエジプトへいって、奴隷になっているヘブライの人達を救えと使命を与えられます。 しかし、いまだに戸惑い、彼はスケールの大きさに怖気づいてしまうのです。弱気になっているモーセに神様は必死に「わたしがついているから。私があなたの口になって、手となってあげる。 みんなの前で私が与えた魔法をみせてヘブライの人たちに信じてもらえばいい」と彼に力づけるのですが、 「他の人にお願いしてください」とモーセに言われて神様は怒鳴ります。 私はモーセという人が今までどんな人なのか分かりませんでしたが、人間味が溢れていて私も自信がなくて弱気になるところがありますので共感しました。 このあとモーセは兄弟のアロンに出会い、助っ人になってもらい、神の杖をもってエジプトに出発します。 続きはまた次回に書きたいと思います)




2018年3月4日
出エジプト記

5章の1~2節より

『モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」ファラオは、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えた。』


7章の10~13節より

『モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。 そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。 それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。 しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。』


(モーセとアロンは解放してほしいと交渉に伺いますが、エジプト王ファラオは、虐げているイスラエルの民を解放しないと頑なになっています。 モーセとアロンは事前に神様から聞き、言われた通り手に持っている魔法の杖を投げて蛇に変えて見せます。 ファラオが雇った魔術師たちも同じことをして見せますが、彼らの蛇はアロンの蛇に飲み込まれてしまいます。 神様のお力の方が上だという証明です。しかし、ファラオは全く心を開かずに、今後もずっとこのような交渉を繰り返していきます。 ここからは沢山の災いが話に登場します。エジプト人にとって欠かせられないナイル川が血に染まる災い。その血に染まったナイル川に卑しい蛙がはびこり王宮の中にも蛙だらけになる災い。 さらにはブヨの災い。アブの災い。イナゴの災い・・・それぞれ力試しをしていき計12回のモーセたちとファラオの交渉が行われていきます。そして、とうとう最後までファラオは頑なのままでずっとイスラエルの民を解放しないで終わります。 これはモーセたちというよりも、ファラオ王と神様の熱い戦いが繰り広げられたと思います。全知全能の偉大な神様と互角に張り合おうとするなんて図太く度胸のある王だと思いました。)




2018年4月1日(イースター。キリストの復活祭)
ヨハネによる福音書

20章の19節〜より
『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。』

20章の24節〜より
『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』

20章の26節〜より
『さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』



(今日はイースターの日。キリストの復活祭です。先日、キリストの映画を見ました。残酷な処刑方法、十字架にかけられて死ぬ話を見たばかりですので、この話を読んでまるで映画の続きを見ているようでとても生々しく感じました。 12人の弟子の内のトマスだけは心を頑なに閉ざしていましたが、イエスの手のひらと脇腹を触ってやっと心を開くようになりました。 鞭を打たれたり槍で刺されたり手のひらにも足にも釘を打たれて惨たらしいことになっていたはずなのに傷一つもないのは普通は信じられません。神の子、イエス・キリストだからこそ奇跡がおきたのだと思います)





2018年4月1日
讃美歌325番・キリスト・イェスは

『1.キリスト・イェスは ハレルヤ
よみがえられた ハレルヤ。
勝利をうたい ハレルヤ、
み名をたたえよう ハレルヤ。

2.十字架にかかり ハレルヤ、
死んで死に勝ち ハレルヤ。
生きていのちを ハレルヤ、
イェスは与えた ハレルヤ。

3.イェスの十字架は ハレルヤ、
われらの救い ハレルヤ。
天の使いと ハレルヤ、
声をあわせよう ハレルヤ。』

(キリスト復活の歌です。とても素敵な曲でしたので載せました)





2018年4月25日
出エジプト記(モーセの十戒)

14章の21節〜より
『モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、 海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。』

14章の26節〜より
『主はモーセに言われた。
「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」
モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。 エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。 イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。』



(映画にもなりました『モーセの十戒』もいよいよクライマックスです。 ある日、奴隷のイスラエル人達が逃亡したと聞いたエジプトのファラオ王は、自ら軍勢を率い、馬をつなげた戦車に軍隊の幹部を乗り込ませて騎兵と歩兵も率いてモーセたちを後から追いかけます。 必死に逃げても追いつかれそうになるイスラエル人達はパニックになって先頭にいるモーセに怒鳴り続けます。 彼らは絶対絶命に陥りますが、見かねた神様はモーセに丁寧に助言をして、彼のもっている杖と手をふらせ海を真っ二つにしてみせます。 激しい風と潮ひきと海を使った神様の奇跡的な自然現象が起きたのです。 神様だからこそ、弱い窮地に立たされた私たちを救って下さったのだとおもいます。 最後の最後まで決して諦めずに謙虚に神様のお声に耳を傾ける気持ちがとても大事だと思いました)





2018年7月1日
出エジプト記

32章の1節〜19節より
『「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。」』

『のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。』

『主はモーセに仰せになった。 「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」』

『宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。』

(モーセとイスラエルの民は十戒という神との契約を結び、神と荒れ野の旅にでていました。 神の使いであるモーセがシナイ山まで行ったきり、40日経っても帰ってこないのでイスラエルの人々は不安のあまりに、 アロンに金の牛の鋳造を作ってもらうように頼んで、「神の偶像をつくってはならない」という十戒の掟を破ってしまいました。 それを見た神は激怒し、モーセに下山せよと命じました。モーセが宿営にもどるとその牛の像と祭壇を見て怒り狂い、 壊してめちゃめちゃにしてしまいました。 人間はとても弱い生き物なんだと思います。お守りのような何か形になるものがないと生きていけないんだなあと思います。 約束を守るということはとても重大なことで、かなりの試練で弱い自分との戦いだと思いました。)





2018年9月16日
ヤコブの手紙

2章の1~8節より

『わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。』


(信仰をしていながらも差別をする信者がいます。本来はそういうことは聖書に基づいて絶対にしてはいけないことなのですが、現実ではそうはいかなく、 どうしても人は、見た目で決めて差別をしてしまいます。貧しい人、弱い人、自己中心的な人、いじめられている人、身障者。 貧乏人もそうなのですが、弱い人を蔑んで無視したり陰口をたたく信者もいます。 私が昔行ってたあるボランティアの集団の中にかつて嫌われている人がいました。でも、その人は精神病だったのです。一度暴れたこともありました。 それなのに、温かい目で見守るべきなのに、「話しかけちゃダメ」「もらっちゃダメ」「近づいちゃダメ」とみんなに言われました。 好意でもってきてくださった食べ物も、台所でコソコソと捨てられていました。 ボランティア団体だというのに、あるまじき行為です。私はその人たちこそ、軽蔑をしてしまいます。 私は絶対にそんな人たちにならないように、嫌わずに、温かい目で見守っていきたいと思います。できたら、そういう人たちの行為をやめさせるように努力していきたいと思います)




2019年9月20日
マタイによる福音書・5章の39節より

『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、 上着をも取らせなさい。 だれかが、1ミリオン(1480メートル)行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。』

(「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」が最近、とても印象に残っており、頭から離れない言葉であります。 なんでそんなことをしないといけないの?損ばかりして返って相手に良いようにされ、やられ続けるではないか! と思ってしまいます。 でも、そのようなことを考えて行動に移してしまうと、争いや戦争などが絶えません。 この聖書の章のタイトルは「復讐してはならない」であることに今聖書を開いて気づきました。 なんでやり返さないのか。それは復讐してはならないということです。 復讐は悲しみしか生まれません。 いま、国同士で子供の喧嘩のように言い争ったり意地悪なことをしあったりしていますが、 見ているこちらは情けなくてもっと、冷静な目でみればいいのになあ。 もっと自分の国に誇りをもって冷静に対処して、国同士助け合って仲直りをしてほしいです。 話はそれてしまいましたが、やったらやり返すは何も良い結果が生まれないことに気づかされました。)





2019年12月1日
ルカによる福音書・1章の30節より

『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもっている男の子を産むが、 その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。』

(毎年クリスマス時期になるとアドベントが始まり、 イエス誕生の話を教会でします。 今日の礼拝司会は私が担当でしたので、この箇所を読ませていただきました。 神から遣われマリアのもとにやってきた天使のガブリエルがイエスを産むという予告をする場面です。 ヨセフの許嫁だったマリアですが、まだ少女でヨセフの顔すらも見たことがありません。 この頃のマリアは14、5歳の少女です。 読みながら、つい、自分の生い立ちと重ねて考えてしまいました。 14、5歳といえば、中学3年か、高校1年ぐらいの歳です。 片思いとか憧れぐらいはありましたが、結婚なんて考えたことが全くありませんでした。考えられません。 受験勉強まっしぐらでした。 マリアは男の人を知らない、と天使のガブリエルに拒絶して言いました。 私もマリアと同じ考えです。いきなり「男の子を産む」と聞かされてはビックリしますし不安にもなってきます。 そう思うと、マリアだって私達と同じ人間の子なのだなと思いました。)





2020年2月23日
アモス書

1章の冒頭より
『テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。それは、ユダの王ウジヤとイスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代、 あの地震の二年前に、イスラエルについて示されたものである。』

7章10節より
『ベテルの司祭アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。 「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。  アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは必ず捕らえられてその土地から連れ去られる。』」 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。 だた、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」 アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を 栽培する者だ。 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。 今、主の言葉を聞け。 あなたは『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわ言を言うな』と言う。 それゆえ、主はこう言われる。 お前の妻は町の中で遊女となり、息子、娘らは剣に倒れ 土地は測り縄で分けられ  お前は汚れた土地で死ぬ。 イスラエルは必ず捕らえられて その土地から連れ去られる。」』



(『預言者』は宮廷で遣わされるぐらいに階級の高い職業だと今日の説教で聞いて驚きました。神様に選ばれたアモスは平民の牧者だったんですね。 今回は7章10節について語りたく思います。 祭司アマツヤに「わたしは預言者ではない。家畜を飼っていちじくの桑を栽培するものだ」と言っているアモスの言葉を見て、 私はてっきり、おおそれ多くてただ謙遜しているのかなと思いました。 でも、違ったんです。彼は怒ってたんですよ。 祭司アマツヤはアモスの国外追放に立ち上がって、彼はアモスに二度とベテル(国家の聖所)で預言するな、「出て行け」と叫んだからなんですよね。 預言者が預言したのではなく、神様が預言してくださったのだとアモスは感情的に言ったんだと思います。 本文に書いてあります、「お前の妻は町で遊女となる」というのは、夫のアマツヤが捕囚の地に送られるため、それまでの贅沢三昧の居心地のよい生活が取り去られ、 拠り頼むものを喪失した妻は生き延びるための屈辱的手段である遊女(売春婦)にならざるを得なくなります。 また子どもたち(息子と娘たち)も殺されてしまいます。さらには、アマツヤの所有していた土地は分割され、他の人々のものとなってしまうのです。 今回は「北イスラエルのベテルの神殿の祭司アマツヤとアモスの対決」のお話でした。 預言者というのは立派な職業ですが、それを否定して神様が仰せになったという立派な発言をしたアモスが素晴らしい人。預言者の鑑だと思いました)




2020年5月17日 コリントの信徒への手紙一

12章の21節より

『目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。』

12章の27節より

『あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。』

(とても力強くて一番心に響いた御言葉です。 “キリストを信じたうえで、聖餐式でパン(キリストの肉)と杯(キリストの血)を預かり、 教会にいる私たちがキリストの体の部位であることを繰り返し繰り返して確かなものとする。 教会は人間たちが作ったものだが、そこには見えない力が働いているのだ”と、 今日の牧師の説教で聞いて気づかされたところでありました。 教会に来てまだ年数が浅い私は、みんなの役に立てず落ち込むことが多々ありましたが、 こんな私でもキリストの体の一つとして必要なものなんだと思い大変光栄に思いました。 これからどんな境遇に立たされても、私は、教会のみんなと一つとなって、キリストの流してくださった血を深く思い噛みしめて、 これからも教会を支えていこうと思いました。)





2021年4月14日 テモテへの手紙 一

6章の6〜12節より

『金銭の欲は、すべての悪の根です。』

(人間は貧しい方が丁度良いとおもいます。 質素な生活をして、些細な喜びを暮らしの中で見つけて自分も、周りの人たちが幸せになります。 でも、どんな人でもお金を手にすると人格が変わってしまいます。 何事においても損得を考え、駆け引きをして、人の心に傷をつけ悲しませ、 最終的には悪いことをして自分自身が破滅してしまいます。 この間の会社の詐欺のニュースをみて深く考えてしまいました。 折角、はじめは小さな会社だったのをだんだん大きくして出世したというのに、 お金の欲に目がくらんで最終的にはボロボロと崩れてしまうんですよね。 だから、お金というのは一気に入るとその人を狂わせてしまうのだと思ってしまいました。 私は今の暮らしが好きです。日々着るもの、食べるもの、家が10年近いので 修理代がでて、お金は減る一方ですが、それでも家族みんな幸せで満足して生きています)





2021年7月18日 



■ サムエル記上 16章の7節より

『主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」』



■ コリントの信徒への手紙 二 12章の7節〜10節より

『また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。 それで、そのために思い上がることのないようにと、 わたしの身に一つのとげが与えられました。 それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。 だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。 なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』



(私はずっと前から劣等感を感じております。 他人と比べたり、子供の頃から姉と比べられたり、 社会人になって同じ職場になっても 「お姉さんの方がよく仕事してくれてましたよ」 と上司に嫌味を言われて酷く落ち込んだことがありました。 私は要領がつかめなくて一つのことばかり捉われて不器用な人間です。 このコンプレックスから脱却したくて聖書を読んでいたら上記の御言葉2つを見つけました。 弱さは強くなる糧だと思いました。勇気づけられました。 だから、周りの流れなんかを気にせず、これからは一人黙々とスキルアップしていきたいと思います)





2021年10月22日 



マタイによる福音書 20章の26節、27節より

『あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい』



(私は北海道に移住する前は、大阪で事務員をしておりました。 そこを辞め、今は北海道で自営業をしております。 この自営もただ、商品を売っていくのではなしに、 サービス精神(奉仕)もしていかないといけないことを知りました。 沢山働いた分、見返りがほしいと思うのは仕方がないのですが、 それを剥き出しにして、ただお客様に売りつけると、そのお客様は 「ああ、ここは何もしてくれないお店なんだ・・・」と 思われてしまい、リピートがないまま帰られてしまいます。 北海道に移住して8年。ただ、売って終わりではなく、 いろんな人たちとお話がしたいですし、関係もつくっていきたいです。 そして、お客様に心から満足していただいて喜んでいただきたいです。 これからもサービス精神を忘れずに、いろんなお客様と出会いたいと強く願っております)





2022年1月26日 



ヤコブの手紙 1章の2節から8節より

『わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。 そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。 疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です』



(時々、父に腹を立ててるときがあります。 いつも洗面所で「あつい」とつぶやくので、 毎回窓を開けるんです。 でも、開けててもまだ「あつい」というんです。 それを嫌味だと受け取ってしまう私です。 1月で暑いのはおかしな話です。 きっと、父は認知症(まだ進行していない)で言った言葉だと思います。 それなのに、嫌味だと決めつけてしまう愚かな私がいます。 昨日、父が全身赤黒く火傷を負ったような姿をした夢を見てしまいました。 驚いて思わず飛び起きてしまいました。 とてもとても怖い夢でした。 きっと、神様がもっと父親を大切にしなさい、と私に忠告したのかとおもいます。 これからは「あつい」と言われても怒らないように寛大な目でみようかと思います)





2022年5月2日 



1.詩編 20章の5節より

『あなたの心の願いをかなえ
あなたの計らいを実現させてくださるように』


2.詩編 28章の6節〜7節より

『主をたたえよ。 嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。 主はわたしの力、わたしの盾 わたしの心は主に依り頼みます。 主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。 歌をささげて感謝いたします。』



(私の夢は、都会や海外で自分たちの彫った木彫り作品が展示されることです。 北海道に移住して相方、吠え壺と二人で木彫り熊を彫って色を付けて販売をしています。 今は自宅の1階で展示販売をしています。 もっと、いろんな人の目に触れてほしくて、広いホールに木彫り熊を沢山展示できれば・・・ といつも夢に思っています。 これから、目標を高くもって制作して営業のために足を運んで積極的に進もうと思います!)





2022年8月6日 



イザヤ書 43章18〜20節

『 先の事どもを思い出すな。
昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、
わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。 』



(この力強いイエス様の御言葉に深い感銘を受けました。 認知症の父は一か月入院しました。 もうじき退院です。 夜、なんの心配事もなくゆっくりと眠れました。 イエス様。 また、木彫工房のお客様も戻ってくださり、 アクセサリーも順調よく売れていってます。 これも、天から見て下さってますイエス様のおかげでございます。 ありがとうございます。 これからも木彫工房にも力をいれていき、沢山のお客様に来ていただけるように頑張ります。 )





2022年10月17日 



1.イザヤ書 41章10節

『 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろくな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。 』


2.ヨシュア記 1章9節

『 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。
うろたえてはならない。
おののいて(震えあがって)はならない
あなたがどこに行ってもあなたの神、
主は共にいる。 』



(最近2つの出来事がありました。 一つはSNSでトラブルを起こした嫌な出来事です。 共通の趣味が合い仲良くしてた人でしたのに突然裏切られ、 チャットで暴言を吐かれてしまいました。 傍に母が見守ってくださり、横から入ってくれてなんとか丸く収まりました。 ネットは顔が見えないですし何を考えているのか何をしているのかが分からないので恐いです。 あれから、ログインしてアバターの顔を見るのが怖いです。 みんな同じ顔をして悪魔のように笑っているように見えて仕方がありません。 今まで楽しみにしてたSNSですのに今じゃ恐ろしくて入れません。 神様。私の心の中にある不安を取り払ってください。

二つ目の出来事は精神科から退院してきた父のことです。 リハビリ治療のおかげですっかり元気になって帰ってきました。 今まで手が震えて一人でできなかったことが今ではできるようになりました。 楽になったと思い安堵していましたが、 この間、ドアを静かに閉めるように注意したらドアをわざと大きく閉めて、 「バカヤロー!」と暴言を吐かれてしまいました。 突然豹変したのでビックリしました。 今はまだマシなのですがこのままだとどんどんエスカレートしていき、 また引っ越し前で起こしたクレーマーの頃の父に戻ると思います。 はやく病院にいって先生に見てもらいたいのですが スケジュールがつまっておりガンジガラメになってなかなか行けません。 神様。どうか父の言動がこれ以上エスカレートしていきませんように お祈りをしております。 アーメン。)





2023年1月21日 


天の父なる神様。
毎日、アクセサリーと木彫り熊を作って励んでおります。
毎月5万円以上稼いで生活を安泰させたいです。
そして、有名になって「木彫工房」と「アクセサリー」が世に出るようにしたいです。
神様。どうか、私と母にお力をください。
そして、精神が不安定であります父の居場所も決まるようにしてください。
父の病気がこれ以上悪化しませんように。
アーメン。





2023年4月7日 


天の父なる神様。
毎日、アクセサリーとイラストを描いて仕事に励んでおります。
神様のおかげで、やっと固定客がつきました。
もっと、固定のお客様がつくように
これからも励みたいと思います。
父の病気も今のところは悪化しておりません。
毎月看護師さんと先生と薬剤師さんに
家に来てもらってます。
これからも私達をどうか見守ってください。
アーメン。





2023年6月25日 


天の父なる神様。
父の精神病が悪化して
とうとう入院することになりました。
なんとか躁(そう)状態がおちついて
まともに家で生活ができますように。
アクセサリーの販売は好調ですが、
なかなか、一日に10万を
稼ぐことができません。
やはり、今年の10月からバイトを
して補うしかありません。
でも、私はなんとしてでも、
アクセサリー販売を本業にして
立派な商売人になりたいです。
神様、どうかお力をください。
アーメン。





2024年1月5日 


天の父なる神様。

毎日アクセサリー作りとマグカップの絵を描いて

頑張っております。

少ないですが、やっと

お客様に買ってもらえるようになりました。

これもいつも見守ってくださっています神様のおかげです。

この調子でこれからも制作に励んでいきたく思います。

去年の秋から父は入院しております。

治るどころか、また双極性障害が悪化して

入院も長引いております。

神様、どうか、父の症状も軽くしてあげてください。

どうか、私達家族を良い方向へとお導きください。

アーメン。





<ブログ記事ここまで>

皆さま、いつもお訪ねいただきましてありがとうございます。